大衆迎合

面白い物語は、受け手のこともしっかり考えて作られなきゃならない、という当然の部分は漸く納得できるようになってきた。

昔はクリエーターはパンクに好き勝手やってりゃ偉いと思っていたのだ。大衆迎合の最たるものは恋愛やら家族や人との絆やら、希望やら、そういうのだ。

おれはガキの頃はグロくてエロくて不謹慎なことしてりゃパンクなのかと勘違いしていたが、そういうグロいのも結局需要と供給だ。

需要が多いものを提供すれば金になるし、需要が少ないものを提供すれば金にならないけど金にならないことをやろうとしてる人間がパンクに見えるという話だろう。

ただし、ほんの少しでも需要がなければパンクにすらならない。パンクだと思ってもらうのにもある程度大衆迎合しないと存在すら気づいてもらえないのだ。それでも気にせずに作り続ける人こそ真の前衛だろうが、前衛だと思ってもらうのにもある程度の知名度と、受け手に「すごく実力あるワ!」と思ってもらわなきゃやっぱり成立しない。

大衆が見たいと思っているものにフォーカスを当ててドラマチックにこねくり回してパンクでもないくせにパンクなフリとかして、漸く作品として認知されるのだ。

パンクな作品などない。パンクを気取っている作品があるのみだ。資本主義社会では金になるかどうかでしか評価は得られない。ドラえもんだってアンパンマンだって金になるから存在を許されているのだ。金にならなきゃあんなもん単なる水色の狸と気色の悪い喋るアンパンだぞ。そんなもんに何の価値がある?